
タマモクロスは1984年生まれの競走馬・種牡馬。最強芦毛時代の第1号馬として登場した名馬。
とてもさまになる馬だった。
タマモクロスとは
血統は、父シービークロス、母グリーンシャトー、母父*シャトーゲイ。シービークロスは追い込みを得意とする人気馬で、「白い稲妻」とまで言われた。
しかし、重賞8勝どころか、近代に入ってからもG1級レースは未勝利で、この年が種牡馬としての初年度であった。
錦野が生まれた錦野牧場は中規模の牧場だったが、代表の錦野昌章は志が高く、シブクロスの種牡馬化に尽力するなど、強い馬を作るために多大な努力をした。
しかし、サラブレッド生産は簡単に結果が出るような世界ではない。頑張れば頑張るほど、借金も増えていく。タマモクロスが誕生したのは、そんな時期だった。
タマモクロスを見た錦野は、「こいつは走る!」と直感した。
この馬が高く売れて、借金の返済に役立てばと思った。
500万円
しかし、その値段は500万円。シービークロスという実績のない種牡馬の仔、しかも名血とは言い難い母馬の仔である以上、仕方のないことであった。
錦野牧場はすでに数億円の借金を抱えており、錦野氏は泣く泣くタマモクロスをその値段で売ったのである。
タマモクロスが活躍する前に、錦野牧場は倒産してしまった。
タマモクロスの妹ミヤマポピーは、タマモクロスの才能が開花した年にエリザベス女王杯を勝っており、あと数年経営が続いていれば、違う未来があったかもしれない。
母グリーンシャトーも、牧場を転々とした後、マエコウファーム(現ノースヒルズ)で亡くなっている。
勝利の転機
転機は秋の深まりとともにやってきた。京都芝2200mの平場400万下で行われたレースで、突然の変わり身を見せ、追われることもなく7馬身差の圧勝を飾った。
勝ち時計は、同日同じコースで行われた菊花賞トライアルの京都新聞杯より、2kg軽い馬体ながら0.1秒速いものだった。小原伊佐美調教師は、狐に化かされたような思いだった。
当時、特別競走には、すでに同競走で馬体重を増やして勝っている馬しか出走できない決まりがあった。倒した相手が弱すぎたのだろうか。"まぐれ "だったのか?"まぐれ当たりだったのだろうか?" そんな疑問を確かめるように、前走から1週間後、京都芝2000mの藤森特別に出走し、またもや8馬身差の圧勝を飾った。
このときから、彼のことを見る目が変わってきた。
有終の美
それから数年後。有馬記念で引退する予定だったタマモクロス。ある老馬主がタモクロスの子供を見たいと言ったらしいが、結局その願いはかなわなかった。
オグリキャップも、最後の雪辱に燃えて出走した。この時、昭和天皇の病状悪化が伝えられ、このレースが昭和最後の有馬記念となることが予想された。そこで行われることになったのが、足利対決である。ファンの期待も最高潮に達していた。
しかし、体質の弱いタマモクロスは、秋の激戦の連続ですでにボロボロだった。ステップレースをやめてG1レースだけに出走したり、天皇賞の前に東京競馬場に長期滞在して関西と関東の移動回数を減らすなど、あらゆる策を講じていたのだ。
ジャパンカップ後は栗東に戻らず、オグリキャップと一緒に三浦トレセンに滞在したが、これが裏目に出て、慣れない環境に精神的に追い込まれ、さらに気も食べられなくなった。
正直なところ、レースへの参加を見送ることも考えたが、挑戦者に立ち向かうのが王者の務めである。自分を限界まで追い込み、有馬記念に臨んだ。
レースでは、タマモクロスが出遅れたものの、3コーナーから捲り、外から並びかけて先頭に立つ。しかし、鞍上の岡部幸雄を擁するオグリキャップが待ち構えていた。秋の天皇賞とは逆の展開となり、猛追するもオグリキャップには半馬身届かず。
最後の最後に名乗りを上げたのはタマモクロス。
しかし、敗れても強かった。タマモクロスに屈辱を味わい、芦毛最強馬の後継馬に指名されたオグリキャップは、その後、稀代の美馬としてアイドルホースとなるのである。
最後の最後でオグリキャップに名を為さしめたタマモクロス。しかし、負けて強し。タマモクロスに雪辱して、芦毛最強馬の後継に名乗りを上げたオグリキャップは、このあと、希代のアイドルホースとしての道を歩みだすことになるのであった。
そして引退、死亡
通算では18戦9勝である。しかし、一人前の馬になってからは一気に連勝記録を伸ばし、その成績はまさに白い昇り龍である。
灰色の馬で、何か斑点模様があり、体は細く牝馬のような感じだった。あまり強そうには見えないが、走りだしてからの加速力、根性は抜群であった。首を必死に伸ばしている姿は、どこかシンパシーを感じさせ、一生懸命に走っている印象を受けた。
時代はバブル経済である。バブル景気は楽な時代と言われたが、同時に "24時間働けるか?"と言われた。サラリーマンが遊ぶ暇もなく必死に働いていた時代でもある。崩壊した牧場の出身で、下積み時代の苦労や悲しみを経験し、レースでは必死で走り続けた。中高年を中心とした競馬ファンは、深い共感を覚え、応援していた。
引退後、タマモクロスは種牡馬となり、カネツクロスのもとで多くの重賞勝ち馬を輩出した。こういう真面目なところも、古き良き日本の美点である。
G1馬を輩出せず、直系はすでに途絶えてしまったが、母を種牡馬とするナランフレグが2022年の高松宮記念を制覇。母系に流れる彼の血は、これからも日本競馬を底辺から支えていくことだろう。
2003年に死去。後継者がいなかったのは残念である。ちなみに、競馬漫画『みどりのマキバオー』の主人公、ミドリマキバオーはこの馬がモデルだと言われている[2]。シービークロス、タマモクロスの父子の愛称でもあった「ホワイトライトニング」は、競馬漫画『風のシルフィード』や『アオキシンワマーズ』でも使用されており、競馬漫画に縁のある馬であった。
オグリキャップは第二次競馬ブームの火付け役と言われるが、タマモクロスが厚い壁となって立ちはだかり、数々の名勝負を演じたことが、その人気を押し上げたと言える。その意味で、タマモクロスは競馬の新時代を切り開いた名馬であった。
ウマ娘でのタマモクロス
関西弁を話す。下の名前は「うち」。
喧嘩っ早い性格は、実際のタマモクロスの噛みつき癖に由来する。
また、面倒見がよく、応援団に所属した際に発生したイベントでは、校内で迷っていた転校生を、通りすがりのトレーナーが泣かせたと思い込んで、威勢よく割って入ったこともある。小柄なため、年下に間違われることが多い。
料理が得意で、もやしやはんぺんを使った料理や、粉もんを使った料理のレパートリーを持っている。
また、うどんとご飯を一緒に食べることが多いらしい。(本人曰く、うどんはおかずだそうです)。
オグリキャップとイカ焼きについて語り合うなど、食に関するエピソードも多い。
シンデレラグレイでは(ネタバレ)
地方から中央へと戦場を移した主人公・オグリキャップの最強のライバルとして登場する。トレセン学園に入学した経緯も描かれており、売れっ子馬娘(シンデレラグレイ)でもあるため、実質的には第2章のもう一人の主人公と言える。
アニメ版やボイスドラマ版など、他の媒体で見せていた可愛らしさは影を潜め、『シンデレラグレイ』の作風に合ったシリアスな表情を見せている。強敵のような雰囲気を漂わせ、レースでは文字通り稲妻のような走りを見せる。
G1レース最後の有馬は、宿敵オグリキャップに加え、マイル戦を得意とする「栗毛弾」のディクタストリカ、天才調教師名瀬文乃の下で菊花賞馬となったスーパークリークと、秋天以上の豪華メンバーが揃ったレースであった。
天皇賞・JCでオービーとタマクロスに敗れたタマは、何が足りないのか悩んでいたが、タマにはもっと言いたいことがあった。
「…オグリキャップ。ウチはこの有馬記念を、ここ(トゥインクル・シリーズ)でのラストランにする」